|
さる4月27日の日曜日、名古屋において「皇統の未来を守るオフ」の学習会が催されました。 当日は多くの方に御集まり頂き、本当にありがとうございました。にも関わらず、拙いナビゲーションで申し訳ありませんでした。拙すぎて、内容も然る事乍ら、どうも時間配分が上手くいかず、最後の「課題」について充分にお話でませんでした。そこで、ここで少しだけ書かせて頂きます。 とは言いましても、「課題」だけ語ったのでは、オフ会に参加されなかった方にはチンプンカンプンでしょう。それでは折角、不特定多数に公開しているブログに書いているのに「私信」となってしまい、また労が報われないような気になってしまいます。 そこで、当日舌っ足らずだった部分を加えながらも、甚だ簡単ではありますが、最初から書かせて頂きます。 尚、当日お配りした資料7枚を1つのファイルにしたものを下に晒しておきます。宜しければ「右クリック」「対象をファイルに保存」でDLして下さい。当日のものに加筆・修正してあります。 資料 ◇ T.山本日本学 山本氏は共著・対談・翻訳等を合わせると200冊にも及ぶ本を出しています。私はその内25〜30冊くらいしか読んでいませんが、一応、谷沢永一氏の言う「日本人論五部作」くらいは目を通していますので、とりあえず何とかなるだろう、ということで、語らせて頂きます。 まずは「カァの描く構図」では、山本氏の日本人論の中で、気に入ったものを挙げ、その著作の位置関係を図式化してみました。当初はこれらを全て取り上げ、時系列に並べてお話しようかと思ったのですが、それでは一つの事柄に時間が掛けられず、余りにも上っ面だけになってしまうので、今回は「勤勉の哲学」に的を絞ってお話しすることにしました。 U.勤勉の哲学 最初に本書の「目的」「意義」「視点」をあげました。途中に書いた『日本人の常識「経済→政治→道徳→宗教」(歴史的にそう考えても当然かも)』というのは、こういう発想が、『日本人はなぜ勤勉なのか。「貧しいからである」』とか『日本はなぜ貯蓄性向が高いのか。「社会保障が不備だからである」』という、解答にならない解答を生むのではないか、といことで書きました。実際、我国は何かの思想によって社会を作った経験に乏しく、鎌倉幕府にしても徳川幕府にしても、いつも「出来ちゃった社会」だからではないかと思っています。因みに山本氏は内村鑑三の孫弟子にあたります。 さて、ここからは大いに端折っていきます。 文字の無かった時代、私達の先祖は自然に逆らって生きる、なんて発想は無かったでしょう。でなければ生きていけないのですから。だから自然に従うことが「法」であり、それに逆らうことが「不法」であったと思われます。しかしこのような考え方、アニミズムは世界中にあります。問題はこれをどの様に展開してきたかです。 江戸時代初期の禅僧・鈴木正三は、「仏法則世法」と考え、「萬民徳用」を著し、「何の事業も皆仏行なり」としました。要するに「全ての仕事は宗教的修行だ」ということです。そしてその為に得られる収入は仏からの恵み・「結果」として認めるが、金儲けを「目的」にすることは否定しています。これを以って山本氏は「勤勉の哲学の祖」としています。 江戸中期の商人・石田梅岩は、表現は儒教的ではありますが、言ってることは正三とほぼ同じです。人は自然の通りに生きることが「善」で、そしてその様に生きるようになっている。それは人には「仏性(正三)・本心(梅岩の弟子・手島堵庵)・人間性(現代)」いわば自然の秩序の通りに生きる為の本能のようなものが生まれた時から備わっているからだ、としています。 しかしそれでも人の世には争いが絶えません。その原因を、正三も梅岩も、人が煩悩などによる「病」に罹るからだとしています。そしてその病を治してくれるのが、正三の場合は「大医王」、梅岩の場合は「薬」です。人格神的な正三に対して理神論的な梅岩って感じです。 ただ梅岩は、正三が収入を「結果」としたのに加えて、消費についても規定し、贅沢をしたがるのは虚栄心からだとして、「倹約の精神」を打ち立てました。この二人を以って、山本氏は日本人の「勤倹貯蓄の価値観の確立」としています。 この「勤倹貯蓄の価値観」の大本を辿ると、それは「天地の中から一つの物なれり」という世界観から生まれた「人は自然の通りに生きればよい」という考え方に行き着きます。正三の神国論・世界観・人間観は当時の常識のようでしたし、また彼らの著作の多くは問答形式になっており、と言う事は、問答が成り立つ前提、世界観や「人は自然の通りに生きればよい」という考え方を周りの者達も共有していたということです。2人が何か特別な突拍子もない世界観を持っていたわけではありません。日本人が普通に抱いていた世界観から生まれが思想です。 ではこの「人は自然の通りに生きればよい」という時の「自然」とはどの様なものなのでしょうか。これは「天然」とは違います。おそらく日本庭園のようなものでしょう。美しい「自然」を表していますが、雑草が生い茂る「天然」ではありません。必ず「手入れ」が必要です。 正三は禅僧ですし、梅岩も「発明」という一種の「悟り」によってしか体得できないとしています。2人ともこのように「自然」という概念への探求を打ち切ってしまいました。しかし後継者の中には、更に追求・発展させた者がいました、それが布施松翁と鎌田柳泓だ、ということで紹介しました。 布施松翁は自然現象を「大自動装置(おほからくり)」として受け止めています。しかしこれは汎神論的で、「御はからひぞありがたし」とあり、いわば「自然科学」を梅岩の「心学的」に解釈しているのです。また鎌田柳泓は梅岩の「形と心」から、日本独自の「進化論」に辿り着いています。柳泓はこの文に続けて「形と心」の関係を心学的に説いていますので、純然たる科学とは全くの別物です。 V.他の著作 時間調節の為に設けた項目で、当日は時間がおしてしまいましたので、この辺からザザ〜ッと流してしまいました。ここでは時間は関係ありませんので、この時お話したかったことを書いておきます。 <日本人とは何か> ・富永仲基 仲基の言う「加上」とは、山本氏によると、「前説の上に出ようと加える」乃至は「権威づけようと、絶対的権威の言葉に加える」ということだそうです。儒教の例を資料に挙げました。 要するに、春秋時代の人々が斉の桓公や晋の文公を尊んでいたのに対して、孔子はそれより古い周の文王・武王を持ち出した(加上)、後代の儒者はその孔子の教えの権威を利用して、己の思想を追加(加上)していった、ということです。 仲基はこれと同じ「加上」という考え方で、仏教も分析しています。彼にとって宗教とは信仰の対象ではなく、本文批判・編集史的に捉えた分析の対象でした。西欧の聖書学でそれが出来るようになったのは戦後のことだそうです。 また仲基は「言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり、道、これがために異なり」として、民俗文化によって加上の傾向が違うと考え、それを「くせ」としました。仏教の「くせ」は神秘的傾向・儒教は修辞的傾向・神道は秘伝的傾向としています。そして加上はこういった「くせ」を増幅するから、そんなものを輸入しても意味が無いとし、「仏は天竺の道。儒は漢の道。国ことなれば、日本の道にあらず」としています。では神道はというと、こちらは「秘伝の伝授」を非難し、「神は日本の道なれども、時ことなれば、今の世の道にあらず」としています。 結局神儒仏を否定しているように見えるのですが、では仲基は日頃の規範をどの様に考えていたのでしょうか。彼が言うには「唯物ごとそのあたりまえをつとめ、今日の業を本とし、心をすぐにし、身持ちをただしくし、……君あるものは、よくこれに心をつくし、子あるものは、能(よく)これををしへ、臣あるものは、よくこれをおさめ、夫あるものは、能これに従ひ……今の家にすみ、今のならはしに従ひ、今の掟を守」ればそれでよく、「是レ天地自然の理、因(もと)ヨリ儒仏ノ教ヘニ待タズ」でした。 山本氏は、これは「三教の否定」というより「三教への彼の加上」であろう、としています。私(カァ)としましては、「何だい、『是レ天地自然の理』ってことは結局『人は自然の通りに生きればよい』ってことじゃんか」と解釈してしまうのです。 ・山片蟠桃(当日お配りした資料では「片山蟠桃」となっていました。訂正しお詫び申し上げます) 前記の鎌田柳泓は進化論の「枝分かれ」を記しましたが、蟠桃は「自然淘汰」を記しています。2人は共に「無神論者」と評されていますが、山本氏はどちらかと言うと「無霊魂論者」とし、儒教的自然主義をつきつめると同じ様なものになるのであろう、としています。 ただ蟠桃の世界観をみると、「天文学ヲ以テ天ト云所ノモノハ、天アリテ後地アリ、地アリテ後人アリ、人アリテ後ニ仁義礼智忠信考悌アリ、ミナ人ヲ治ムルノ道ナレバ、コノ件々ハ天アリテ後ノコトナリ、然レバ、則(すなわち)ソノ元ハスベテ天ニアリ」とあり、山本氏によると、朱子学の発想である「天理則本然之性」を肯定しているが、蟠桃にとっての「天理」とは近代的な天文学である、としています。 山本氏は朱子学の「天理」としていますが、しかし同じ朱子学の影響を受けた朝鮮や本家の支那からは進化論は出てきていないようです。山本氏はこれについては「別の機会に譲ろう」としていますが、私(カァ)はそれを読んだことはなく、又そういった著作が出ているとも聞きません。 私(カァ)としては、文字なき時代からの「人は自然の通りに生きればよい」の「自然」を西欧からの天文学・自然科学にしているのではないかと思うのです。何故なら、やはり朝鮮・支那からはこういった考えが出ていないからです。 <日本教徒> ・不干斎ハビアン ハビアンは最初、幼くして臨済宗の寺に入ったと言われていますが、その後20歳前後にキリシタンとなり、イエズス会で活動しています。その頃「妙貞問答(みょうていもんどう)」(慶長8年−1603)を著し、神儒仏を排撃しています。ところが慶長10年(1605)頃に棄教し、「破提宇子(はデウス)」(元和6年−1620)を著して今度はキリスト教を排撃しています。 これではまるで変節漢のようですが、山本氏によると、ハビアンには一貫した「自然(じねん)法・ナツウラ(ナチュラル)の教へ」という概念があり、それは彼の著作を読めば誰にでもわかる、としています。神儒仏はその自然法を守って生きていくことに害になるとして「妙貞問答」で排撃し、晩年の「破提宇子」ではキリシタンこそ、自然法を守るには猛毒だ、と排撃しているのだそうです。 ただ、彼の思想は反論の形でしか表現されておらず、積極的に自らの思想を表してはいません。しかし宗教を自然法を守って生きていく為の方法論としているのは、正三や梅岩と同じですし、彼の自然法とは「人は自然の通りに生きればよい」であったと思われます。 そして思想的系譜として、ハビアンが外国人宣教師達に日本文化を教える教材として編纂した「平家物語」から垣間見える尊皇は、浅見絅斎などの崎門学から水戸学への系譜や貝原益軒の「神祇訓」に見られるような尊皇へと受け継がれ、また自然法は今回のテーマで取り上げた鈴木正三や石田梅岩につながっていると、山本氏は書いています。 <日本的革命の哲学> ・北条泰時 律令制の根幹は班田収受制(公地公民制)とする山本氏(「日本人とは何か」)は、次の様な趣旨のことを書いています。 継受法である律令は完全に機能しなくなり、そして承久の乱(初めての朝廷軍vs幕府軍)でそれを打倒してしまった、しかし新しい法制度を作ろうにも、その基となる政治思想がない、明治や戦後のようにお手本とする国も当時はなかた、いわば「出来ちゃった社会」であり、そこで新しい秩序の根幹は過去や同時代に求めるしかなく、そこで出来上がったのが「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)絶対」の思想であった、としています。 まず「今ある秩序」を(自然発生的に生まれた秩序として・カァ)「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そして自らが作り出す「式目」の体制も、あるがままにあって一向に差し支えありません。そこから生まれたのが朝幕併存の「象徴天皇制」としています。 我国に圧倒的な影響を与えた支那では、「天」と「皇帝」は易姓革命を媒介としてつながっており、絶対なのは「天」であって「皇帝」ではありません。しかし鎌倉幕府は「天」が自然的秩序の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴としました。そこから、孟子の「天意は自動的に人心に表れる」が「天皇の意思は自動的に人心に表れる」となり、天皇個人は意思を持ってはならないとなります。これは現代の天皇制と同じで、当時は御名御璽もなく式目を公布していました。 まぁ朝幕併存はこれくらいにして、「自然的秩序絶対」については、御成敗式目(貞永元年−1232)からは、人身売買の禁止と、飢饉による特例の許可に現れているように思います。その条文を資料に挙げておきました。 幕府のこの対応は「生存権優先」であり、「食えない、食わすことができない、売られても餓死するよりはまし」とする考えから生まれた自然発生的な秩序で、それをあるがままに受け止めています。 ・明恵上人(承安3年〜寛喜4年−1173〜1232) 山本氏は、泰時の「自然的秩序絶対」の思想に影響を与えたのは明恵上人だとしています。まずはその辺のところを示す為に、「明恵上人伝記」からの引用を資料に挙げておきます。 泰時の「天下を治めるにはどうすりゃいいの?」という問に対して明恵上人は国家を人間に例え、「良い医者は病の根源を知った上で薬を与える。だから治るのだ。国家も同じで、国が乱れる根本原因を知らなければならない。それを知らずに目先の事柄で賞罰を行っていては、人心は捻じ曲がって悪くなり、国が治まることはない。ヤブ医者が病原を見ずに患部ばかりを見て薬を与え、益々病を重くするようなものだ。では世の乱れる根源はと言うと、それは欲心だ。この欲心が全ての禍となる。『是を療せんと思ひ給はば、先づこの欲心を失ひ給はば、天下自(おのずか)ら令せずして治るべし』」と答えています。これに対して泰時は「自分だけなら努力もしますが、でも国中の人々から欲心を無くすのは難しい、どうすりゃいいの?」と再度尋ね、明恵上人は「トップが聖人たれ」と儒教的徳治主義で答えています。 山本氏は明恵上人の儒教的徳治主義の言葉を捉え、これは人間を自然の中の一存在とし、自然の秩序が同時に個人の道徳律の基本であり、それがまた社会の秩序の基本であるとする支那の基本的思想から出た考え方、としています。しかし私(カァ)からすると、支那と我国では「自然の秩序」をどの様に感知するかは同じとは限らず、実際、明恵上人は人々の心から欲心が無くなれば、「令せずして」自動的に秩序が「化為(なる)」と考えており、これは記紀以来の自然生成説で、人為的な、例えば「科挙」などの組織という発想はありません。また山本氏も、自然的秩序絶対の明恵上人ではなく、明治や戦後のやり方の様に、「支那を模範としてその通りにすべきだ」という者がいて、泰時がその通りに実行していたら、我国は李氏朝鮮のような国になっていたかもしれない、としています。よって私(カァ)は、支那の基本的思想よりも、我国独自の文字なき時代以来の思想と解釈します。 さて、次は「あるべきようは」についてです。この言葉は明恵上人が座右の銘の如くよく口にしていたようで、元々は僧侶の素質に応じた行で解脱を求めた言葉で、いわば行を「あるべきよう」に行えという意味ではないか、とのことです。それが後に、一般人に共通する規範として受け取られるようになったそうです。 山本氏は、この「あるべきよう」を具体化すると、細かいところまで「こうあるべきだ」と定めた律法主義になってしまう、しかしそうではなく、弟子の筆記による「却廃忘記」を引用し(資料に載せました)、「ただ心の実法に実あるふるまひは、おのずから戒法に付合すべき也」で内的規範がそのまま外的規範であるようになるのが「あるべきようは」であって、「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である、としています。また、見方を変えれば、「あるべきよう」にしていれば、自動的に秩序は「なる」ということ、それも決して固定的ではなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである、ともしています。そしてこの「二百五十戒」に相当するのが御成敗式目だそうです。 さて、次は鈴木正三との関係ですが、山本氏は或る僧侶から「正三は明恵上人の系統ではないか」と言われたそうです。確かに「あるべきよう」が「帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣下のあるへきやう〜このあるへきようにそむくゆへに一切あしき也」と理解されると、これは世俗の一般倫理となり、さらに「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現に有るべき様にて有らんと申すなり」が加わると、「後生を願ってひたすら念仏を唱えても無意味で、それよりもこの世での任務をあるべきように果たせばよい」とも考え得ます。これなら、正三の「四民日用」の祖形と言えるでしょうが、しかし山本氏は、正三の著作からそれを実証するのは難しいとしています。 ただ「勤勉の哲学」と結び付かなくても、そのベースとなった思想、自然的秩序が全ての基本であり、内的規範(道徳律)も社会秩序もそれに基かなければならないとする思想は、ハビアンにも正三にも通じているとしています。更に言うなら、私(カァ)としては前記のように、明恵上人も文字なき時代からの思想を受け継いでいる、としたいです。 ということで、私(カァ)の山本日本学を通した解釈を続けると、明恵上人の「あるべきよう」を、正三は一仏の徳用として人間に移った「仏性」に従う様、石門心学は自然の中の一存在である人間が宿している「本心」に従う様、として説明した形になっていると思うのです。崇伝の「伴天連追放の文」の「(神国の神を)人々具足し、個々円成す」も関連あるでしょう。 そこで学習会では、石門心学の「形と心」から、「形」が自然の秩序に従った「あるべきよう」を決めるという意味で、明恵上人と石門心学とのつながりを説明する為に「『あるべきようは』は『男らしく』や『学生らしく』の『らしく』と同じ」とお話しました。御参加の方からは「あるべきよう」の文法についてのご指摘を受けましたが、私(カァ)としてはこういう意図でした。 W.課題 <太古から柳泓、そして現代まで貫くもの> 学習会ではここで一気にまとめようとしたのですが、時間配分を誤り充分にご説明できませんでした。今回のこの記事では各々の人物・事象でくどい様に「自然」という言葉を使ってきましたので、おおよそのところは感じ取って頂けたかもしれませんが、ここで簡単にまとめておきます。 ・自然神教 太古から現代まで貫くもの、それは「自然」という概念です。この概念を基礎とする私達の世界とは、まず人間を自然の中の一存在とし、自然の秩序が同時に個人の道徳律の基本であり、それがまた社会秩序の基本となる世界です。この図式は支那の基本的思想でもあるそうですが、しかし(1)支那と我国では自然風土が違っていること、(2)支那・朝鮮からは儒教先進国なのに鎌田柳泓や山片蟠桃のような進化論が出てこなかったこと、また(3)個人々々が高い道徳性を持てば自動的に人間らしく生きられる社会秩序が生成されるという、社会秩序すら自然生成説であり、支那・朝鮮では「科挙」という人為的な組織論の発想があり、個人の道徳と社会秩序の関係が我国とは違っていること、これら3つのことから、同じ「自然の秩序」といっても「自然」の概念は同じではないと言えると思います。 我国独自の思想であることを補足するものとして、「日本書紀」の天地創造は支那の「準南子」「三五暦記」の影響を受けていても、それはただの模倣ではなく、取捨選択は我国が行うのだから、そこに描かれている「自然生成説で自然に従う」思想は我国独自のものであり、それらは単なる表現形式にすぎない、ということや、支那から影響を受けた三教合一論は一種の自然法思想であり、それが先進文化という権威として「自然法通りに生きればよい」という伝統的思想を強化し、あらゆる外来思想を「自然の法通りに生きること」を達成する為の方法論と見る思想を生んだ、ということを資料に挙げました。 またこの「自然」という概念を基礎とする世界は、柳泓や蟠桃で終わった訳ではなく、正三の一仏の徳用として自然の秩序が各人に移った「仏性」・石門心学の自然の中の一存在である人間が元々宿している「本心」、これを現代では「人間性」と言い替え、明治維新・敗戦を経ても続いています。 資料の最後に書いてしまいましたが、昔、小室直樹氏の「新戦争論」を読んで、今では手元にないのですが、確か戦争を社会に溜まった矛盾(毒?)を解消する為の世界的なシステムとして捉えていたように思います。これなどは布施松翁の、世界を「大自動装置(おほからくり)」と捉えているのと同じ見方です。 山本氏はこの思想の問題点として、秩序は人々の道徳により自動的に生成されるものという考え方では、全てを内心(心掛け・道徳)の問題としてしまい、自らの意志で、いわば人為的に社会を変えることができなくなるという点を挙げ、終戦の御聖断「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を例としています。実際に今でも明治維新や終戦を取り上げて「日本は外圧が無いと変革ができない」とも言われます。 内心の問題に帰する傾向はこれだけではありません。例えば環境問題。これも法律・制度よりも「一人々々の心掛け」に趣を置いていますし、反戦運動もそればかりで、一種の宗教になってしまっています。 それに「自然」という概念を基礎とする世界で生まれた正三や梅岩の思想も、勤倹貯蓄という価値観として残り、これが我国の近代化の礎となったと「勤勉の哲学」で書かれています。宗教についても、自然の通りに生きる為の方法論とすることも引き継がれています。憲法9条の問題にしても、継受法である律令を残したまま幕府が政治を行い、何の法的根拠も無い式目を発布した自然的秩序絶対の思想で、継受法である憲法をそのままにして軍隊をもっています。 エ〜、ダラダラと例を挙げても結局は帰納法で推論にすぎないのですが、山本日本学からはこのように見えてくるのです。 ・「禅」とする山本氏に反論 山本氏は、正三は禅僧だし、梅岩も「発明」という悟りに達しているのだから、今の日本は「禅」が作った、としています。これに対して私が学習会で「それは神道なんじゃないかなぁ」としたところ、御参加の皆様から禅について様々な御意見・御教示を頂きました。 私(カァ)は「禅」についてほとんど知らないのですが、その時のお話から極端に簡略化すると、自然法を基として「あるがまま」であることと受け取りました。だとすると、「あるがまま」は風土やその社会によってマチマチなのではないか、と思ってしまうのです。支那と我国では風土が違いますから、「自然のまま」と言っても違うでしょうし、人間社会も、支那・朝鮮は完全な血縁社会であるのに対して、我国は婿養子を認める擬似血縁社会です。社会を「あるがまま」に見ても違ってくると思います。 ただ、マチマチなのも含めて「あるがまま」なのかもしれませんが、そこまでいくと普遍性やら「禅」そのものの探求の話になってしまい、山本日本学の視点、世俗社会への影響という視点からずれてしまいます。まぁ元を知らなければその変遷を比較できないのですが…。 で、山本日本学の視点で見ると、ベースとなる思想は、明恵上人・泰時・ハビアンとつながっているのですから、簡単には「禅」が今の日本を作ったとは言えないはずです。正三は禅僧ですから区別がし難いのですが、梅岩は彼の場所と時代の枠の中で考え、自然の通りに生きるとはどういうことかを探求していきました。と言うことは、梅岩が探求した「自然」とは、当時の国内で漠然と認識されていた「自然」という概念であり、そしてそれは文字なき時代からのものではないかと考えられるのです。 この「文字なき時代からのもの」ということで、「禅ではなく神道なんじゃないかなぁ」と思う訳です。まぁ我国は神仏習合で、本地垂迹説などは仏教が我国での自己の正統性を示す為に神道に擦り寄ってできたもので、そういう形で一体となっているので、今更云々言うことではないのかもしれませんが…。 ・見えてくる『天皇』 私達の先祖は自然の中に神々を感じ、それを敬い従ってきました。キリスト教のような被造物としてではなく、そういう形で「自然」を捉え、その自然の秩序を基に個人の秩序(道徳律)や社会の秩序が成り立っていました。この思想をまとめたのが記紀であり、ということは、この思想は神道の一側面であるということです。 そしてその思想が根底にあるまま現代に至り、途中で明恵上人−北条泰時の思想を生んで幕府を確立したり、正三や梅岩によって勤倹貯蓄の思想を生んで明治や戦後の近代化を成し遂げたりしました。要は、神道の思想が社会の根底にあり、それが現代まで貫いている、ということです。 そして神道は天皇なくして成り立ちません。ですから天皇の御存在こそが、我国の社会を支える根幹ということです。もし天皇の御存在がなくなればこの思想も廃れ、現代において「人として人間らしく生きる社会」と言っても「人間らしく」の根本である「人間性」も解らなくなり、目指すべき社会を見失い、迷走してしまいます。 この様に天皇の御存在こそが、昔から今までの日本人の社会を支え、そして将来の社会を生み出す根幹なのですから、崇めても崇めても崇め足りないほど尊いお方なのです。これは水戸学から維新の志士までの尊皇とは少し違う系統の、政治を抜きにした土民の尊皇です。 こういったことが、山本日本学から見えてくる『天皇』ということなのですが、しかし『天皇』については、勿論これが全てという訳ではありません。この学習会で拝見した両陛下のご巡幸の映像で涙ぐんでしまう自分がいて、これまで述べてきたことだけでこの涙の理由を説明できません。ですから山本日本学から見えてくる『天皇』と言っても、それはほんの一部にすぎません。しかしその一部であっても、如何に天皇の御存在が我国にとって重要か、そして如何に尊い御存在であるかをわかって頂ければ、それだけで充分です。 <問題点> 文字なき時代からの「自然」という概念が時代と共に発展してきて、鎌田柳泓や山片蟠桃の、我国独自の「進化論」にまで発展してきたことは、これまでに書いてきました。そこで私が問題に思うのは、こういったところから、現代の「科学万能主義」は西欧がもたらしたのではなく、その芽は江戸時代にあったのではないか、ということです。「心学的科学」は権威としての「西欧科学」からお墨付きを頂いただけではないか、ということです。しかしこれは「心学的科学」であって「真の科学」ではありません。それで福沢諭吉の例を資料に挙げました。 そして現代の日本人もこの系統に生き、生活しているということです。しかし「真の科学」とは、「科学的ではないから信じない」ってことで、感じるものを感じてはならない、などとすることではなく、「なぜ感じるのか」「どの様に感じるのか」を探求することです。この心学的科学が、「天皇は科学的には人間なのだから、たとえ何かを感じていても感じてはならない」となり、この態度がとれる人物を「進歩的人間」としてしまったのでしょう。それが現在の天皇の御存在にとって、危険な考え方になっていると思います。 明治は江戸時代を消し、戦後は戦前を消しました。ですから心学は知識の上では消されてしまいました。しかし西欧科学からお墨付きを受けた心学的科学だけは無自覚な思想として生き残ったのでしょう。 <対策> 私が考えるに、まずは真の科学と心学的科学を分けなくてはならないと思うのです。それによって心学的な考え方を意識してもらい、そこからその根幹である伝統的思想と天皇を身近に感じてもらえるのではないか、と期待するのです。 ・津田左右吉 ではまず「真の科学」とはどういうものなのか、ということで、津田博士を例に挙げるつもりでした。戦前は「記紀」を史実としなければ「不敬罪」でしたが、戦後は史実とすると無知蒙昧とされます。いずれも実際に起きた事件かどうかしか問題にされていません。 しかし博士は記紀を読む時、「歴史的事件」と「歴史的事実」を分けています。記紀は実際に起きた「事件」の記述ではないが、当時の日本人の考え方はわかるとして、その考え方を「事実」としています。そう考えていたことは「事実」ってことです。博士は例として源氏物語を挙げ、小説だらら実際に起きた事件ではないが、平安貴族たちの思想や考え方はわかる、それと同じことだ、としているそうです。 で、博士の説によると…。民族にとっての大きなイベントは戦争で、最も関心があり、語り継がれるものだ、しかし記紀にはそういった記述が極めて少ない、これは我国が平和的に統合したからだ…としています。山本氏はこれを「文化的優位による統合」と表現しています。 そこで思い出したのが、卑弥呼が宗教によって統合したこと、邪馬台国が大和朝廷と直結するかどうかは解りませんが、そういう文化的土壌があったということで、宗教という文化で統合している例です。支那の冊封体制もそうかもしれません。政治的には各国は独立していても、文化的に支配している、文化の中心だから、各国の王に、その正統性を与えることがきたのではないか…と。 現代で想像してみると、少し前までは(今でも?)文化の中心は東京で、地方では「花の都・東京」として憧れていました。「東京では云々」が基準となり、それが地方を引き連れていたことも事実でしょう。その時の日本人の心境を想像すると、だいたいこれに似た感じではないかと想像できます。 そこで思い出したのが、皇統護持のお仲間が以前に気にされていた「うしはく」と「しらす」の関係です。「しらす」とはこの「文化的優位による統合」ではないか、という気がしてきてきます。勿論これは私の勝手な想像で、科学的証明は全くされていませんが…。 …とまぁ、津田博士の説が真実かどうかはわかりませんが、しかし自分達の信じている思想の根源をもっと深く知りたい、こういった態度が、真に科学的なのだと思います。 ・「水からの伝言」 最後に「水伝」を資料に載せました。皆さんはこれをお読みになってどう思われるでしょうか。私には、偽科学ではありますが、しかし自然の秩序を個人の道徳と結び付ける発想は、心学そのものとしか思えません。この「水伝」を肯定している方々に、松翁の「大自動装置」や柳泓の進化論を示せば、伝統的思想に気が付いてもらえるかもしれません。そして更に神道や天皇を意識してもらうことも期待できるのでは…。甘いでしょうか…。 以上です。 何やら小難しい昔の文章を多用しましたが、如何でしたでしょうか。読み難いかもしれませんが、しかし内容は突拍子もないことが書かれている訳ではなく、正三の輪廻転生の辺りは別にして、それ以外は随分と共感できたのではないでしょうか。これは、お爺ちゃんお婆ちゃんに対するのと同じ感覚で過去の時代を見て欲しい、私達は彼らの後輩でつながっているのだと感じて欲しい、という意図から、昔の文章を載せました。 ←"人気blogランキング"に参加しています。<私信> エ〜、学習会の後、気が抜けてボーっとしてしまい、懇親会では弾けることができませんでした。何やら体調も悪かったようで、翌日と翌々日には微熱が出てしまいました。折角遠くから来て頂いたのにお相手できず、たいへん申し訳ありませんでした。 |
| << 前記事(2008/04/07) | トップへ | 後記事(2008/05/11)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
カァさん、こんにちわ。愛子さまと眞子さま佳子さま悠仁さまのGWの報道を見て、嬉しくなっている私です。 |
じぇな 2008/05/17 10:52 |
彬子さまのTDLデート報道から、何も報道はありませんが、ご交際は順調なのかしら?瑤子さまはどうなのかしら?とか、おばさん根性丸出しで、気になっています。殿下がご病気の今、何か殿下が喜ばれる事がないかと…。 |
じぇな 2008/05/17 10:52 |
こんぱんは、じぇなさん。 |
カァ 2008/05/18 03:06 |
| << 前記事(2008/04/07) | トップへ | 後記事(2008/05/11)>> |
北方領土の日
Takeshima is Japanese Territory.