![]() 先日の日曜日、「皇統の未来を守るオフ19(山科掃苔行)」に参加してきました。台風の影響が心配だったのですが、当日は雨も上がり、風も穏やかなものでした。こうなると逆に熱さが気になりましたが、水辺を歩いたことや、霧雨があったりして、この時期にしてはたいへん快適な参拝・学習会日和でした。ただ、日頃運動をしていない私は、現在筋肉痛を味わっています。しかしこれも、不思議と心地良いものに感じられます。 ルートは上図のとおりです。 内容については、前回の記事にも記したのですが、もう一度記しておきます。 【内容】 (一)平安期以降も皇室の宗廟として祭祀が存続した天智天皇山科陵に参拝。近辺に残存する江戸期の山科陵祭祀遺構を探索し現地学習。 (二)毘沙門堂門跡を拝観・輪王寺宮墓地に参拝し、江戸期の三山管領宮についての現地学習。 (三)盲人職能集団の祖神・天夜尊として尊崇された人康親王の旧蹟を巡拝し現地学習。 ◇ で、学習の成果は、と言うと…。 なんせ記紀をザッと読んだだけで、予習としてもウィキペディアをチラホラ覘いただけでしたので、知識がまだまだ自分の血や肉になっておらず、皆さんにご報告できるものがありません。ただ現地学習の良いところは、知識が無くて言葉に表すことが出来なくても、その場で「何か」を感じることができることだと思います。 その「何か」の片鱗を、ご一緒したお仲間が「江戸時代が無かったら大変なことになっていたんやなぁ」と仰ったことから、自分の言葉として血や肉に出来たような気がしました。江戸時代とは、祭祀やその精神・伝統を整備し、後の世に伝えようとしてくれた時代だったんだなぁ、ということです。 そんな話の流れから、「たかが60年」という言葉がお仲間の中から出てきました。これは、憲法のことを仰ったのか戦後社会のことを仰ったのか忘れてしまいましたが、一応、この場では憲法のこととしても差し支えないでしょう。決して「だから遵守しなくても良い」って意味ではありませんが、「9条教」のように執着しているのを見ると、我国の悠久の歴史からすれば、何ともバカバカしくなってきます。実際その場で笑ってしまいましたし、本当に現地に行くと、そういう感覚になります。 ◇ もう一つ感じたことがあります。それは、輪王寺宮墓地の門前の階段を、お仲間で掃除した時です。私は竹箒を使ったのですが、それはまるで石段の苔を削いでいる様で、正に「掃苔」だなぁと思いました。…と、感じたのはそんなことではなく、その時、お一人が「これが本当なんやなぁ」と仰いました。これは「(皇統護持とは、知識を集めたり議論を戦わせたりすることよりも)これが本当なんやなぁ」という意味でしょう。妙〜に感動しました。 おそらくこれが信仰というものなのでしょう。「信仰」などと書くと、如何わしい新興宗教、或いは創価学会や統一教会を想像され、引かれてしまうかもしれません。では「敬神崇祖」としたらどうでしょう。もっと平たく言えば「鰯の頭」です。 例えば「お墓」です。これは石に文字を彫ったものにすぎません。ただの物質です。それでも人々がお線香を上げて拝むのは、その石に「何か」を感じているからです。感じるから「お墓」なのです。いくら先祖供養をしなくなった現代人でも、墓石を漬物の石にしてしまう人はいないでしょう。あ、漬物の石なんて現代ではほとんど使いませんか…。 ですからここで言う「信仰」とは、何故、生まれながらに人間は「人権」という権利を持っているのか、合理的に説明できないのに「持っている」と信じている「信仰」、「法治主義」も一神教の伝統から生まれたもので、「法律(神との契約)は何が何でも守らなければならない」と信じる「信仰」という意味で、一般で言われる「宗教の中での信仰心」とは少し意味が違います。根本は同じですけどね。 「9条教」にしても、「9条」を「鰯の頭」にしているだけで、言ってみれば、我国の神道の伝統から派生したものです。ただこれには正統性が無く、本当に「たかが60年」で、しかも狂信的で、人間が変え得る「法律」であることが目に入らなくなってしまっています。お墓が石であることが見えず、まるで小指1本で動かせると思い込んでいるのと同じことです。夢物語です。 これに比べて私が感じた信仰は、皇統や陛下に「何か」を感じてはいますが、「人間」であられることも充分に承知しています。だから狂信的にならずにコントロールできるのです。「こういう事をしたらバチが当たる」とか「願い事があるなら何処そこの神社でこの様にお参りすれば良い」とか、こうやって感じるもののコントロールを確立してきたのが、私達の精神文化の伝統です。 ですからこの信仰は、神代の時代から受け継がれ、「富田メモ」での騒ぎを見れば、ほとんどの日本人はこの信仰を感じているとしか思えず、正当性も正統性もある信仰だと思います。これが現代でも天皇陛下を戴いている我国の根幹でしょう。 ◇ さて、以前の記事で「世俗化したボランティアは嫌いだ」というようなことを書いたのですが、今回のこういった宗教性…ってのは大げさですね、精神性のある奉仕活動について、考えさせられました。 以前、仕事の付き合いで或る仏教系の宗教に入ったのですが、その団体では週に一度、朝の5時から近所の駅の清掃をしていました。布教活動は別にあるのですが、ただそういった活動が、世の中に布教していくことに役立っているのではないかと思います。おそらく創価学会や統一教会もやってるんじゃないですかね。 所謂「サヨク」にしても、こちらは「世俗化したボランティア」ってやつで、私は嫌いなのですが、それでも「○○公園でのゴミ拾い」とか、そういった活動で世の中に浸透していっているような気がします。「人権派弁護士」と言われる方々も無報酬で働いていますし、創価学会の会員は、様々な生活相談にのってもらっているようです。 折角、我国は多神教の国で、何でも「鰯の頭」になる神道の伝統を持っているのですから、皇統護持を広めようと思っている私達も、もう少し奉仕活動というものに目を向けた方が良いのかもしれません。 ◇ そうは言っても…、難しいですね。やはり考えている知識だけではダメで、その知識が血や肉とならないと、強い意思とは結び付かないのでしょう。 まずは勉強し、こういったことの積み重ねで、その知識を自分の血や肉とするところから始めます。 ←"人気blogランキング"に参加しています。こちらではセミが煩いのですが、山科ではいつもはどうなのでしょう。セミがほとんど鳴いていませんでした。台風の後だったからかな? |
| << 前記事(2007/07/14) | トップへ | 後記事(2007/07/17)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2007/07/14) | トップへ | 後記事(2007/07/17)>> |
北方領土の日
Takeshima is Japanese Territory.