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help リーダーに追加 RSS 話し合い至上主義

<<   作成日時 : 2006/11/10 01:59   >>

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 前回の記事「調整型政治家」で、『「原則なんて邪魔にしかならない!」これが日本の調整型政治家です』と書きました。しかしこういう政治家が派閥の領袖や総理大臣にまでなるのですから、日本人の中にもそれなりの「何か」があるのではないでしょうか。

 私はその「何か」を「話し合い至上主義」と思っています。「原則無しの話し合い」という、チョッとややこしい原則です。

 だって調整型の政治家が最も怒るのは「話し合い無視」で、これは野党の議員さんも同じですが、例えルールに従ったトップダウンであっても、スグに「民主主義に反する」とか「ファショだ、独裁だ、ヒットラーだ」と叫びます。そう思うなら「法規違反だ」とか「独裁者を出すような法律・制度は変えなければならない」となるはずなのですが、そんな主張は全く出てきません。

 これは「話し合い至上主義」と「民主主義」を混同しているからです。民主主義とは、各々が原理原則と、それによる規範を持っていることが前提です。そういった世界での調整とは、互いに譲れない原則を明確にし、互いにその原則を崩さない方法を探るものです。どうしても決着しない場合は多数決で決めれば良い訳で、その為に多数決はあると思っています。

 「話し合い至上主義」と「民主主義」を混同している例として、昔こんな話を聞いたことがあります。
 或る小学校で、悪ふざけをした児童がいました。教師はその児童にどの様な罰を与えたら良いかを民主的に決めようと、クラスのみんなに話し合いをさせました。その結果、その児童は素っ裸で廊下に立たされました。

 当時の報道では「民主主義の履き違え」とか書かれたそうですが、これも「原則無しの話し合い」です。果たして児童を裸にして晒すことが許されることかどうか、その児童の人格をも否定することにならないのか、刑法のような罪と罰を測る基準も何もありません。全くの無原則です。これを聞いた時には呆気にとられました。

 しかしよくよく考えてみると、これが日本の伝統的価値観の帰結とも思えます。聖徳太子の十七条憲法で「和を以って貴しと為し」と明文化され、明治帝の五箇条のご誓文でも「万機公論ニ決スヘシ」と謳われ、我が民族の原則と言っても良いでしょう。

 外来の民主主義とは似て非なるものです。そこを理解しないと様々な問題は解決しません。法的には単なる校長の補助機関でしかない職員会議が大きな権限を持ってしまったりすることも、この「話し合い至上主義」のせいでしょう。

 談合にしても、共存共栄を図る企業が集い、一蓮托生の共同体が出来てしまっています。その共同体の中での無原則な話し合いにより、入札制度の意義とか独占禁止法をも無視することになります。

 各種改革での官僚の抵抗にしても、官僚達が利権を守る為や、「悪いことなどしてないのに」という被害者意識などから仲間意識ができてしまい、その仲間同士での無原則な話し合いによって、上級官僚が大臣の言うことをきかないのではないかと思っています。ですから上級官僚個人としては、大臣の命令に従わなければならないと思っていても、仲間から「村八分」にされる為に大臣に抵抗してしまう…。

 ですから、ただただこれらのことを非難し、責任者を逮捕したりしても無駄でしょう。次から次へと起きてきます。実際そうでしょう。なんせ私達自身がその原則で生活しているのですから。

 問題は2点。「共同体」と「無原則」です。

 共同体については、私はこれまで「日本で組織をつくると必ず共同体になる」と書いてきました。それは「忠孝一致」という言葉に現れています。そもそも「忠」とは組織内での徳目で、「孝」は家族・共同体の中での徳目です。別物だから別々に言葉があるのです。それが日本で一致してしまうのは、組織が家族(共同体)となってしまうからです。

 平たく言えば「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」っていう世界です。果たしてこんな世界は日本以外にあるのでしょうか…。

 今では談合を密告する制度があるそうです。密告すれば罰金を免除とか軽減されるそうで、そうすることによって談合する共同体から仲間意識を失わせ、共同体を破壊するという点で、私は効果があると思っています。更に地下に潜るような奴等は相当なワルです。

 まぁ世の為人の為にならない犯罪組織(共同体)などは、このように潰していけば良いのですが、お役所とか企業はそうもいきません。昨今言われる「隠蔽体質」なども、犯罪集団でなくとも、どんな組織でも必ずあります。
論語 子路第十三 第十八章
葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰、吾黨之直者異於是。父爲子隱、子爲父隱。直在其中矣。

葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰はく、「吾が党に躬(み)を直くする者あり。其の父羊を攘(ぬす)む。而して子之を証せり」。孔子曰はく、「吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り」。

葉公が孔子に告げて言うには、「私どもの村には曲がったことが大嫌いな正直者がいます。父が羊を誤魔化したのを、子でありながら訴えてこれを証明しました」。孔子は言われた、「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子の為に隠し、子は父の為に隠します。正直さはそこに自然に備わるものですよ」

 勿論孔子は「隠す」ことを「直」と言っているのではなく、親子の情愛に「直」と言っているのでしょう。確かに親の不正を言い募り、正義漢面するヤツは尊敬されません。企業が共同体となっては、やはり家庭の恥は隠すはずで、隠蔽体質を批判しているマスコミだって同じです。勿論あなたも私もです。

 逆の例えを言うなら、過去の日本の非をあげつらって悦に入ってる反日活動家の日本人ってとこですかね。

 …ということで、潰してはならない共同体については、残る「無原則」を何とかするしかなさそうです。

 そもそも日本人はそんなに無原則だったのでしょうか。「明治の頃の日本人の方が今の日本人より交渉がしやすい」と西洋人が言っていたと聞いたことがあります。そりゃそうかもしれませんね。昔から無原則だったら、日本はもっと無茶苦茶で、存続していなかったかもしれません。

 神儒仏が混合した日本人の宗教観も、無節操で無原則に見えます。しかしお守りなどの臨在感は神道、葬式などの死生観は仏教、生活規範は儒教と、或る程度住み分けができています。本当は原則があり、その原則を表現するのに夫々の宗教の言葉を使っているだけではないでしょうか。

 明治時代の話では、都会の銀行で頭取までになった人物が、親から「年を取って畑仕事もままならなくなったから家業を手伝ってくれ」という手紙を受け取ると、何の躊躇も無く頭取を辞めて田舎に帰ったそうで、それを誰も不思議に思わない時代だったそうです。

 これは勿論儒教の規範に則った行動なのですが、そういった個人の話だけではなく、政治の話でも、薩長同盟など、敵対感情を抑えて倒幕の原則を重視したし、坂本竜馬も己の原則(信念?)に従った行動なのでしょう。そう考えると、幕末の攘夷が明治になると開国に変わってしまったことも、果たして無原則だったのかと疑問を抱きます。

 攘夷とは、表層的にみれば、外国人を追い払うってことでしょう。しかし深いところでは、列強に呑み込まれることへの精神的な警戒、物理的には、列強の干渉を排し独立を保とうとすることではないでしょうか。とするならば、武力で攘夷は出来ませんでしたが、開国と富国強兵によって平和的に攘夷を達成したと言えると思います。その原則が大東亜共栄圏まで貫かれたという気もします。

 このように見ると、昔の日本人には原則があったと言えるでしょう。これならば「話し合い主義」と「原則」の両方が揃い、後は西洋の多数決原理や議会制などを制度として導入すれば、民主主義国家の出来上がりです。大正デモクラシーや戦後の女性の参政権などは、参政権を何処まで広げるかの問題で、基本形はやはり明治に出来たと思います。決してGHQが施してくれたものではありません。

 それが何故、現代では原則が無いのでしょう。

 今のところ私は、外来の、日本からすれば根無し草の「自由」というものが原因ではないかと思っています。輸入元の西洋では、おそらく原理原則・規範を自由に選べるという意味なのでしょう。それが日本では自由が無原則・無規範となってしまっています。

 輸入元の西洋で花咲いた「自由」を切り取って移植したもので、日本では「良心の自由」とかで、輸入元の西洋がビックリするような「国旗掲揚・国家斉唱の拒否」という怪物にまで成長してしまっています。

 各々が原則を持つこと、そしてその様な教育をすること、これらが急務だと思います。このままでは自由と民主主義が日本を滅ぼすかもしれません。

 個人的には、教育勅語の復活や論語を読ませたりすれば良いと思ってるんですけどね。教育基本法の改正も、愛国心が云々よりも、そういった教育ができるように改正して欲しいと思っています。

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 先日、「皇統の未来を守るオフ11」に参加させて頂きました。その時の勉強会では「日本人の皇室再認識のために」というテーマで講義が行われ、「日本人とは何ぞや」という話も出てきて、日本人論が大好きな私にはたいへん美味しい講義でした。

 その中で、「『原則』の捉え方の違い」というのがありまして、「日本人は原則を相対的に捉えている」というお話がありました。私はそれまで無原則を嘆いていましたので、「ヘ〜ェ、そういう見方もあるのかぁ」などと妙に納得して帰りました。

 で、前回の記事と合わせて色々頭の中で渦巻くものを整理している内に、相対化した原則というものが具体的に想像できないことに気付きました。相対化された原則って、それって原則と呼べるのか?ってことです。実質的に無原則ってことの様に思えるのです。

 まぁそんなことや、以前から書きたかった談合や官僚の抵抗などをひっくるめて、今回記事を書いてみました。

 相変わらずまとまりのない文章だなぁ…。ゴメンナサイね。

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思うて学ばざれば則ち殆し
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 今回の第166回通常国会は、事実上先週末に閉幕しました。折角延長したのに、随分と日数が余ってしまいましたね。 ...続きを見る
思うて学ばざれば則ち殆し
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 自民党の総裁選では、福田康夫氏が圧倒的優位だそうですね。これに関して保守派の方々は危機感を持っておられるようです。しかし私からすると、福田氏はとても保守的な政治家だと思うようにになりました。ただここで言う「保守」とは、ブログを立ち上げられている保守派の方々のような「理念としての保守」ではなく、「土着の保守」ということです。 ...続きを見る
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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
既に亀レスっぽいですが、以下だけで失礼(^_^;

> 今のところ私は、外来の、日本からすれば根無し草の「自由」というものが原因ではないかと思っています。

「自由」といいますか、いわゆる戦後教育が個人を尊重しすぎている結果として、わがままのようなものまで「自由」の範囲内に含めてしまっているということだと思います。

それと、日本の過去の歴史を否定することから、公(国)という枠組み(これも共同体)が意識からなくなって、各自が認識する(企業などの)共同体が最も重要なもの(従って、その利益を第一に考える)になってしまっているのではないかと思います。
ワヤ
URL
2006/11/11 00:12
(続きで、これも。

>それは「忠孝一致」という言葉に現れています。

忠孝一致(または忠孝一本)という考え方は、現在個人的に興味を持って勉強中?なのですが、これはそもそも、易姓革命を行うような外国(支那、中国)では、その時の君主に忠となることが必ずしも自身の先祖に対しては孝とならないのに対して、万世一系の皇国(日本)では天皇に忠を尽くすことが先祖に対しても孝を尽くすことになる、というところから来ています。
(最近、吉田松陰の士規七則(の2つ目)を知りますた(w
(これこそが、日本の素晴らしいところだということです。
ワヤ
URL
2006/11/11 00:13
こんばんは、ワヤさん。返事が遅れて申し訳ありません。
 「自由」や「個人」について、至極御尤もなお話で、賛同いたします。
 ただ私は日本人は「個人」というものをどの様に捉えているかということを知りたいと思っています。「自由」や「民主」っていうのも、そこから派生してくるものでしょうから。
 例えば仏教では、時間の無い無限の空間の中で輪廻転生があり、その中での個の捉え方。キリスト教では、神が歴史を支配し、その過去から未来への時間の中での個の捉え方。又、宗教とは関係なく、人間は1人では存続できませんから、蟻や蜂のように全体で1つで、その中での個という捉え方というのもあります。
 まぁそんな単純なものではないのでしょうが、とりあえず今のところ、日本人は3番目の考え方に近いのかなぁなどと思っています。公(共同体・家族)の中の個って感じで。
 あまりにも難しいので、生涯理解できないかもしれません。そもそも問題の設定自体が間違ってたりして…。
(続く↓)
カァ
2006/11/12 19:24
(続き)
 次に「忠孝一致」ですが、なるほど、支那の易姓革命との関連をお聞きして、長年のモヤモヤがとれました。ありがとうございます。
 ただ、その様な考えでは、「忠」が「孝」を行う実践項目の1つになってしまうようで、今ひとつ腑に落ちません。それよりも、日本は八紘一宇の精神でできた国で、「忠」が必要ない社会だったって方が納得いきます。それでも何とか日本版の「忠」を理解しようとするから、実践項目の1つになってしまうのではないでしょうか。
 でも、戦国時代は親子で闘ったりしてますし、♪義理と人情を計りに掛けりゃ、義理が重たい男の世界♪とか♪親の血を引く兄弟よりも、固い契りの義兄弟♪ってのもありますから、もっと考えなければならないでしょうけど…。
カァ
2006/11/12 19:25
こんばんは。
先のレスは、必ずしも反論というつもりのものでもございませんで、賛同いただき恐縮でございます。
「個人」の捉え方というのは、難しい問題ですね。
話が前後しますが、日本人にも原則はあると思います。また、あるからこその先日のオフ会でもあったと思います。
(ただ、「原則」を表現していると思われる「物語」には、解釈の余地があったりなんかもして、また、難しいと言いますか、、、(^o^;
ワヤ
URL
2006/11/14 04:23
(続き)
> ただ、その様な考えでは、「忠」が「孝」を行う実践項目の1つになってしまうようで、

「忠」も「孝」も人に生来より備わっている徳目であって、それが日本では(たまたま?)一致している、ということだと思っております。
実践項目ということではないと思います。

「生来より備わっている」ということから、まずは、「人情」と呼ぶのも良いのかもしれません。
ただ、「人情」というのも曖昧な言葉ですし、そのような「人情」の表出の一面が儒教にある言葉(あるいは漢語)によって表現されたと捉えることもできると思います。

また、さらに補足しますと、
「忠孝一本」というのも、教育勅語に示されている通りのことなのだと思っています。
(もちろん、時代的に、忠孝一本という元来の考え方が、教育勅語に反映されているということです。)
(教育勅語にある「國體の精華」がそれです。)
ワヤ
URL
2006/11/14 04:24
こんにちは、ワヤさん。

>「忠」も「孝」も人に生来より備わっている徳目であって、それが日本では(たまたま?)一致している、ということだと思っております。

 基本的にはワヤさんと私では同じ様な認識ではないかと思います。ただ私はそういう性善説からのアプローチではなく、日本の社会組織のあり様からアプローチしているように思います。
 その辺のところは長くなりそうなので、「橿原宮造営の詔」という記事を書きました。宜しければそちらをお読み下さい。
カァ
2006/11/14 12:14

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